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HABIT

習慣を身につければ世の中の大体の事はうまくいく

子供に対して敬語であいさつが出来ない大人の思考回路とメカニズム

人生

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とある朝の風景

土曜日の朝8時。自然と目覚めた私は、今日が燃えるゴミの日である事に気付く。

「まだ間に合うな」

ゴミ出しを終え、戻るついでに自販機で缶コーヒーを買ってそそくさとアパートに戻る。するとガラス張りの施錠式のドアの向こうに、小学校高学年くらいの男の子が見える。鍵を開けて中に入る。 

 

 

「おはようございます」

 

こちらから、あいさつをした。出来るだけ威圧的にならないようにと、聞こえるか聞こえないかギリギリの控えめな声に彼はペコリと会釈だけ返した。

 

理想とする形

世間的には、子供たちの元気なあいさつに大人が返すのが理想的なのかも知れない。もちろん、子供たちの方から笑顔で元気よくあいさつしてくれる事もある。そんな時はテンションMAXになって、相手の声量の120%であいさつを返す事になる。とても気持ちがいい。「きっと今日はいい一日になる」

 

ただ迷っているだけ

でも、実際はこんなパターンもある。こちらの存在には気付いているが、あいさつするべきかどうかを迷っている。チラチラと上目遣いで様子をうかがっている。そんな時は、こちらからあいさつをする。そうすると、大体は笑顔で元気なあいさつを返してくれる。これもとっても嬉しい。

 

悪気はない

そして、3つ目が今朝のパターン。ただ恥ずかしがっているのなら問題はない。でも、もし知らないおじさんが危ないという認識だとすれば少し悲しい。私が目指すところは、こういった子供の反応に対して負の感情を抱かない人間になる事だ。つまり、それはあいさつを返してくれないからといって、いちいちがっかりしないという事でもある。

 

想像してあげる

これは、感情を無にするのとは少し違う。子供のリアクションには意味がある。

  • 「親のいいつけなのかな」
  • 「何か嫌な事があったのかな」
  • 「たまたま聞こえなかっただけなのかな」

理由を想像してあげるだけでいい。こちらが大人なんだから。

 

自分中心で考えない

こういった場面で、あいさつも出来ないなんて親や学校はどんな教育をしているんだと嘆いてみても意味がない。はたまた、その子を引き留めてどうしてあいさつが出来ないのかと問いただすのはもっと違う。下手をすると、近所の変わり者という扱いを受けてしまうだろう。では、どうしたらいいか。 

 

今日の積み重ねが明日になる

次に会った時、前回と同様にこちらからあいさつをすればいいだけ。何回かあいさつをしていれば、向こうもこちらを覚えてくれる。その繰り返しで、あいさつのやりとりはよりスムーズになる。ただ、それだけの事。

  

大人の責任だと捉える 

そもそも、あいさつを完全ノーリアクションでスルーする子供なんてそれこそ数えるほどしかいない。また、そうなるにはそれなりの原因が過去にあったに違いない。子供は周りの環境をダイレクトに受けて人格形成をする。そして、形成される人格の核は大人のそれより、はるかに柔らかく影響を受けやすい。だからこそ、大人たちの責任は重い。

 

無意識のうちに

とはいえ、自分にもそれだけのやりとりが出来ない時期があった。その理由について考えてみると、どうやら単純ではないように思う。まわりの大人が、あいさつを返してくれなかったせいかも知れない。あいさつを無視された時の、あのみじめな感じを想像すると耐えられなかった。でも、よくよく振り返ってみると社会に出てからの環境による影響が強かったようにも感じる。気付くと、自分は自らあいさつをしない人間になっていた。 

 

敬語が使えない大人

子供の時に触れ合った大人たちはみんな偉そうだった。親も先生も近所のおじさんも。だから、大人に敬語であいさつされた記憶はほとんどない。大人になったら子供に対しては「偉そうにしなければならない」というルールでもあるのかと、卑屈な考えを持っていた。

 

偉いかどうかは誰が決める?

大人になって思う。あれは威厳を保つためにしていただけ。子供たちにナメらないために虚勢を張っていただけ。自信がないから偉そうにすることで、自分の地位を高めようとしている。「本当の大人」を理解している人は、不必要に偉そうにしない。偉いかどうかの基準は決して主観的なものではない。それは周りが決めるもの。

  

ルーツを考えてみる

目上の人間を無条件に敬うという行為の根底には、仏教儒教の教えがある。また、戦争を経てその教えは形を変え、教育やスポーツに影響を及ぼした。スポ根時代の終焉に身をおいてきた自分にとって、あいさつは後輩からするのが常識だった。たとえ先輩が先に気付いていても、それは揺るがない。でも、学校や部活で習った常識は世間には通じなかった。そして、新社会人になるとおかしな価値観が身についていた。

  

見栄の張り合い 

行動を支配していたのは虚栄心だった。どこぞの田舎ヤンキーの如く「芋を引けない」という固定観念。こちらからあいさつをするという事は、こちらが格下である事を認めてしまう。社会に出てからは実力主義なのだから、年上でも自分の方が役職が上であれば自分の方が偉い。だから、あいさつもこちらからすればナメられる。いかに自分を実際のサイズより大きく見せられるかが勝負だった。

 

常に自分を戒めて生きていく

本当は気付いた方が先にあいさつするべき。とはいえ、見知らぬ子どもに「おはよう」というのもなんだか偉そうである。だからこそ、対等な立場で敬語であいさつするべきだと思う。そこに、目上や目下とかはない。しかし、目下の人間がこれを言ってはいけない。目上の人間が言うから筋が通る。なんとなく生きていれば、無意味に偉そうにする大人になってしまう。そうならない為には、謙虚に慎重に年を重ねるべき。

 

 

これからも定期的に自分を戒めていこうと誓った。