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習慣を身につければ世の中の大体の事はうまくいく

水[H₂O]はなんで共有結合なの?化学を学ぶ高校生たちを惑わす結合の罠

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定番の問題

「H₂O、NaCl、Feはイオン結合、共有結合金属結合のどれにあたりますか?」

 

正解は 

H₂O→共有結合

NaCl→イオン結合

Fe→金属結合

 

 

あなたはどっち? 

Aくんはとても素直な子なので、その通りに覚えました。

でもBくんは、それぞれの結合の定義の曖昧さが気になってモヤモヤしています。 

 

あなたはどちらでしたか?

Aくんと同じだったあなたは、この先を読む事で混乱させてしまう可能性があります。

そのまま勉強を先に進める事をおすすめします。

 

 

衝撃の事実

今回はBくんに向けてのお話です。

まずは結論から述べます。

 

イオン結合や金属結合共有結合でもある。

 

衝撃ですね。

そうなんです。

これこそが混乱の元だったんです。

そもそも問題が成り立っていないのです。

 

 

価電子の共有

共有結合とは読んで字のごとく

原子同士がお互いの価電子を出し合い、それを共有してつくる結合

価電子:原子内の最外殻の電子殻をまわっている電子のこと

 

となっています。

 

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希ガス元素以外は持っている

原則、希ガス元素のみが価電子の存在しない閉殻状態です。

つまり、希ガス元素以外は原子の状態で価電子を持っている事になります。

 

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ゆえに、異なる原子同士の結合には価電子の共有は不可避です。

このような考え方からも、異なる原子同士の結合はすべて共有結合だという事が出来ます。

 

問題として成立させてみる

では、冒頭の問題を正しく言い直してみましょう。

 

「H₂O、NaCl、Feのうち、イオン結合性の高い共有結合共有結合性の高い共有結合金属結合性の高い共有結合はどれにあたりますか?」

 

 

なんだかすっきりしないですね。

その為、化学の初級者に対して大人たちが、この3つの結合に線引きをしたのです。

つまり、手心を加えたという訳なのです。

  

 

共有結合の定義

非金属元素同士の結合

・【電気陰性度:大】と【電気陰性度:大】の組み合わせ

・異なる原子の組み合わせで2原子の電気陰性度の差が小さい結合

(原子間の電気陰性度の差が0~2くらい)

 

 

イオン結合の定義

陽イオンと陰イオンが静電気的な引力(クーロン力)によって結合

金属元素非金属元素の結合

・【電気陰性度:小】と【電気陰性度:大】の組み合わせ

・電気陰性度の差が大きな原子間で形成される

(原子間の電気陰性度の差が2以上)

・個体では電気を通さないが、液体状態や水溶液で電気を通す。 

 

例:塩化ナトリウム[NaCl]

[NaCl]は、融点の801℃以上の液体状態になれば電流を通す。

[NaCl]を水に溶かした水溶液(食塩水)も電流を通す。

※[NaCl]が水に溶けるとナトリウムイオン[Na⁺]と塩化物イオン[Cl⁻]に電離する。それぞれのイオンを伝って電気が流れるイメージ。

 

電気陰性度の差から考える

水[H₂O]

酸素[O]の電気陰性度:3.5

水素[H]の電気陰性度:2.1

電気陰性度の差=3.5-2.1=1.4

電気陰性度の差が2以下なので「共有結合」といえる。

 

 

塩化ナトリウム[NaCl]

塩素[Cl]の電気陰性度:3.1

ナトリウム[Na]の電気陰性度:0.9

電気陰性度の差=3.1ー0.9=2.2

電気陰性度の差が2以上なので「イオン結合」といえる。

 

ただし、これは理屈です。

電気陰性度の差から、「共有結合」と「イオン結合」の違いを見極めるためには各原子の電気陰性度をすべて覚える必要があります。

 

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金属結合の定義

金属元素同士の組み合わせ

・【電気陰性度:小】と【電気陰性度:小】の組み合わせ

  

 

 

まとめ 

高校で習う化学では、理解しやすくする為に「共有結合」と「イオン結合」と「金属結合」を区別しています。しかし、それぞれの結合は明確に分類できるものではありません。 実際には、「共有結合性が大きい」とか「イオン結合性が大きい」といった表現をします。 

 

 

結論

水[H₂O]は共有結合である。

 

ただし、酸素と水素の間の電気陰性度の差があり、電子の存在確率は酸素に偏っていますから、そこに「イオン結合性」が付加された共有結合ということになります。

くしゃみ、鼻水、目のかゆみ。あなたが一番耐えられないのは?

目がかゆい、かゆすぎる。いとかゆし。もうかゆいという感覚を通り越してきゃゆい。いや、これはきゃりゅいと言った方がいいのかしら。人差し指の第二関節でグリグリと眼球をこすってみるが、その猛烈なきゃりゅみは治まる事を知らないし、その場をしのぐ事すら許さない。そして、そのかゆみがキャルミェストにまで達した時「もうどうなってもいいの!」とずっと信じてた彼に浮気をされて自暴自棄になっているドラマのヒロインの如く我が眼球の粘膜をいじめぬく。その眼にはコンタクトレンズが装着されたままである訳だから、その自暴自棄っぷりといったらないのである。

 

 

なぜ神は人間の眼球を取り外せるように作ってくれなかったのだろうか。ある惑星で水の存在が確認されたという。地球以外の星にも生物がいる可能性がうんと高まったらしい。その中でも文明の進んだ星の住人たちはきっと寝る前に眼球を外すはずだ。いや、それを眼球と呼ぶかは分からない。しかし、それの事を花粉痒辛白黒玉みたいなネーミングで呼んでいる事は間違いない。そして、その星の金持ち達はヒアルロン酸だかドコサヘキサエン酸だかのうるおい成分120%配合の液体にそれをつけて眠りにつく。それはセレブにのみ許された特権である。

 

実にうらやましい。

 

生きているうちにその星に行ける技術が民間サービスに解放されたなら、その星の者と子孫を残そう。まだ見ぬ我が子ではあるが、毎年のあの苦しみを取り除いてあげられるのであれば当然の発想だ。私の生殖活動の機能限界をNASAの科学技術が追い抜く事も夢じゃない。

 

 

ところがどっこい、日本における文明の進化スピードも相当なものだ。あなたはアイボンなるものをご存じだろうか。妖怪ウォッチの妖怪ではない。ましてやポケモンGOでゲット出来るモンスターでもない。医薬品だ。しかも第三類だ。そして私が愛用しているアイボンちゃんはピンク色をしている。ビタミンAからZくらいまでを補給してくれる魔法の液体である。流線型の美しいフォルムを纏った専用のカップを使い片目20回ずつパチパチと眼球グリングリンを行う。この神聖なるお清めの儀式により迷える子羊は無事キャルミェストの呪いから解放されるのだ。解放時間は2時間ほどではあるが、生まれてきた事とこの世の全てに感謝したくなる。この爽快感を知ってからというもの、私は小林製薬の本社に足を向けて寝れなくなった。

 

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人類が放つリーサルウェポン「AIBON」愛嬌と親しみが溢れ出るネーミング、アイボン。しかし、言われてみればたしかにアルマゲドンと読めなくもない。自分の命をかけて接近する隕石を破壊する勇気とアイボンの洗浄力はもはや同価値である。日本の製薬会社のたゆまぬ努力によって救世主伝説の幕がここに開けたのだ。


しかしながら、名前にボンを組み込んだ商品開発部のエースの勇気には脱帽である。いつの時代も誰も踏み入れていない未開の地に人類進化のきっかけはある。

 

【第3類医薬品】アイボンWビタミン 500mL

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メサイア・コンプレックスとは日本でいう天邪鬼のもうちょっと複雑なもの

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虚栄心のかたまり

虚栄心とは自分を実質以上に見せようと、見栄を張りたがる心。虚栄心の強い人の周りには、虚栄心の強い人が多い。思い返せば、この虚栄心とやらに相当悩まされてきた。見栄っ張りは劣等感の裏返し。己の劣等感を抱く心を恥じる事が出来れば、見栄など張らない。虚栄心が強すぎると思ったら、今の集団から離れる準備を始める事。

 

傲慢の方程式

傲慢だと人から認められない。

人は傲慢な人を認めたくない。

 

なんで嫌われるかわからない

嫌われる人は、「好かれる事」と「偉いと思われる事」を同じだと思っている。だから、好かれる為に偉いと思われる事を実践する。その過程で自分を立派に見せようとして、他人を踏み台にする。だから、嫌われる。さらに、好かれないと好かれなくていいと開き直る。そうやって、卑屈な人間になってさらに嫌われる。

  

変えられるのは己と未来のみ

神経症的傾向の強い大人は心の借金を一気に返すものとして夢を抱く。その「夢」を実現すれば、今抱えている問題が一気に解決すると思っている。今までの人間関係の恨みつらみを一気に晴らすような望みを抱く。今は利己主義者だけれど、もともとはやさしい人だから何事も精一杯してきている。

 

自分が神経症的傾向の強い大人だった事に気づかされた。いつのまにか過去の恨みつらみに縛られる寂しい人間になっていた。「変えられるのは己と未来のみ」って偉人達も言ってる。何かが悔しくて人を見返すために出世しても、新たに問題を抱えるだけ。神経症的傾向の強い大人がいう「夢」とは「神経症的解決」であり「復讐的勝利」である。

 

メサイア・コンプレックス

メサイア・コンプレックス(Messiah complex)とは、キリスト・コンプレックスまたは救世主妄想とも呼ばれる。メサイアというのは、日本語でいうメシア(救世主)。自殺未遂をするほど悩んでいる人が、悩んでいる他人を救いたがるようなこと。そこには、自殺したいほどの劣等感と世界の悩める人を救いたいという非現実的なほど高い願望が共存している。基底にある自尊心の低さを、他者を助けることからくる自己有用感で補償する人々のこと。

 

逆説的論理のゴリ押し

この心理が形成されるのは、自分は不幸であるという感情を抑圧していたため、その反動として自分は幸せであるという強迫的な思いこみが発生する為とされる。さらにこの状況が深まると、自分自身が人を助ける事で自分は幸せだ(自分には価値がある)と思い込もうとする。このような論理になるのは、幸せな人は不幸な人を助けて当然と考えるから。「自分は幸せである→なぜなら人を助けるような立場にいるから」本来は人を援助するその源として、まず自らが充足した状況になることが必要であるが、この考えは原因と結果を逆転させている。

 

自分の正体

ドキッとした。心臓を素手で鷲掴みにされて、脳味噌のシワの隙間を覗かれているような感覚に陥った。「自分の一つの命で一万人の命が救えるとしたら、自分はどうするのだろうか」という無意味なたらればを繰り返してきた事を思い出した。自分みたいな人間の命がそんなに役に立つならどうぞお使いください。...でも、死んだ後も評価されたいから、その事実は地球上の人間すべてに知ってほしい。そうでなければ死にたくない。いや、きっとそうであっても自分の命は差し出さない。



自分の低劣な思想に吐き気がした。

 

やさしい人(愛蔵版)

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「執着性格者」という存在を知ってようやく自分が何者か分かった

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今の自分を肯定する

自分を好きな人は、自分の生い立ちや今ある自分を「よし」とする。この「今の自分」でいいと思っている。今までの自分の人生を否定している人は、自分を好きではない。

自分を認められないのは、人間が客観的な生き物だからだろうか。「あの人に比べたら、自分なんて..。」条件反射で自分を卑下する癖。「甘んじる」のと「認める」の違いを理解するべきだと思った。何より、死ぬまで一生付き合っていく自分を自分くらいは好きにならなければいけないと思った。

 

執着性格者の特徴

「執着性格者」とは著者の造語。過去や未来に執着する人の総称。

特徴としては

  • 「幼少期の心の傷を水に流せないでいる」
  • 「何かを取り返そうと思っている」
  • 「取るに足らない事を悩んでいる」

などが挙げられる。 

 

当てはまりすぎて怖い

自分の今までの人生を振り返ると執着性格者そのものだと思った。どこかで損した分の帳尻合わせをしようとずっと必死だった。「報われないわけがない」という根拠のない思い込みをし続けてきた。「このままだと将来が大変な事になってしまう」という漠然とした不安も抱えていた。ずっと「今」以外に執着して生きてきた。自分の言動の根拠がここにあるようなそんな予感がした。 

 

愛着性格者の特徴

対して「愛着性格者」とは、やさしい人の事。

特徴としては

  • 「一緒にいて心が安らぐ」
  • 「自分の許容範囲を超える事をしない」
  • 「無理がないから、いつも心にゆとりがある」

など。

 

 これまでに心のゆとりを感じた事なんて一度だってあっただろうか。

 

憎しみの人は欲張り

「あれも欲しい、これも欲しい」と思うから「あれもない、これもない」と不満になる。劣等感のせいで、自分が自分の欲望を否定する。お金が欲しいのに欲しくないふりをする。ふりをすることにエネルギーを使うから、何もしなくても消耗してしまう。そうしているうちに自分は何が欲しいか分からなくなる。

 

世界に一つだけの花

人は自分の位置を忘れて競う。しかも、そもそも競うことがおかしい人と競っている。競う事を善とする教育を受けてきた。その在り方が疑問視されて、個性の尊重とやらで「ゆとり教育」の導入。結局、「ゆとり教育」も批判され影をひそめる。誰と競うかをまわりの大人が教えてあげれば良かっただけ。大人たちの責任。

 

著者は完全に言い切った

ビールが美味しい。そういうときは、すでに人生の頂上に来ている。

 

そうか...。そこが人生の頂上だったのか。

 

やさしい人(愛蔵版)

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自分の意志で何かを決断できなくなるメカニズム

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惰性という悪魔の誘い

学生時代はやりたい事とやるべき事の判断が出来ていなかった。いや、判断しなければならないと分かっていながら敢えて避けてきた。きっと自分の周りで起きている事象の数とその展開スピードに脳が追い付いていない状態だったんだと思う。情報処理速度が間に合っていなければいちいち「知ること」に興味を持てないのだ。こうして惰性という名の悪魔の誘いに安易に乗り続ける事で自分の意志や個性は削がれていった。 

  

「当たり前」という恐怖の言葉

社会人になると勉強や部活は仕事に置き換えられ自分の意志や目的意識がさらに影を潜めた。「当たり前」とか「普通は...」といった個を真っ向から否定する恐怖の言葉に操られ目の前の義務に追われ続けた。必然的に自らの意志で選択する場面も減っていった。 それでもやろうと思えばこの先の道を選択する事は可能だったのかも知れない。

 

精神の安定を優先

しかし、「当たり前」というレールから外れて自分の意見を主張するというのには少しの勇気と大きな代償が常に付きまとう。さらに、右ならえの習慣文化が未だ根強い日本においてちょっとでも違った事をするというのは周囲からの圧力が増す事を意味する。そうであれば最初から周りに迎合してしまう方が精神の安定は保たれる。いつも何かに追われて疲弊しているから未開の地に最初の一歩を踏み出す体力が残されていないのだ。諸々のストレスを想像するといつも反射的に思考を停止させるようになっていた。

 

情報処理が間に合っていない

保育園、学校、職場と、この国にはきちんと決められた道がある。そして、それぞれの共同体には協調性を育む事や勉学に勤しむ事、利益の追求といった決められた目的が存在する。 一見ステージを進めるごとに個々人の意志で選択できる事が減ってくるようにも見える。でも実際は選択が減っているのではなく極力妥当な選択をするように個人の意識が変化していってるだけ。その時々の環境における圧倒的な情報量と各共同体の常識に常に溺れている状態なのだ。何か新しい事を知ろうという活動の根源の酸素が足りていないのだ。

 

「知ること」から始める 

これらはすべて仕事を辞めてからの発想である。やるべき事が何も無い状態は僕にたくさんの酸素を供給してくれた。一時的に「人生のすべて=自由時間」になってようやくスタートラインに立てた。さらに、無限の自由時間を消化していると、「知ること」や「情報収集」がいかに重要かを理解できるようになってくる。知識や情報が増える事は自分の今後の人生の可能性を広げてくれる事だと再確認できる。さらにそこで得た知識が「夢中になれる何か」を見つけ出すきっかけに繋がるし、選択肢も増やしてくれると思った。まずは「知ること」からはじめようと思う。いきなり夢中になれるものを見つけるのではく、今は焦らずに脳へのインプットに専念する事にした。

 

人生に無駄な事なんて一つもない

知識のインプットを日常化出来るようになると自分の事についても考えられるようになった。とても不思議な感覚だった。仕事をしている時は自分の人生をまるで他人事のように考えていた。自身を客観的に見る習慣がエスカレートし過ぎていたのだ。つまり、それだけ「世間のそれっぽい常識」に全身を委ねていたという証拠でもある。「自分は何者なのか」「一体何をしたいのか」を知りたかったらそれなりの時間が必要なのだ。死ぬまでに今の「無職の時期が無駄じゃなかった」と思える日が来ればと切に願う。

 

get-habit.hatenablog.com

 

年齢とともに減少するものリストに「知的好奇心」というのも追加させてください

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無職チャンス

はてさて、時間を持て余すとなんだか急に本が読みたくなった。こんなに自由に時間を使える事なんて無職である今の時期を除いてこの先ないかも知れない。これはチャンスだ。きっと世間一般でいういわゆる「無職チャンス」だ。気付けば本屋に行く頻度も増えていた。読む本の数が増えると、そこから得られる情報が刺激となり知的欲求がかき立てられた。不思議だった。知らなかった事を知るとさらにどんどん知りたい事が増えてくる。いつのまにか「知ること」に夢中になっていた。

 

嬉しかった

「知ること」に夢中になれる自分の感覚が正直嬉しかった。ふと「知的好奇心の申し子」と言われ近所で恐れおののかれていた神童時代を思い出した。あの頃は世界の全てが知りたくかった。そして、それが叶うものだと信じて止まない知的欲求モンスターだった。それが、長年の怠惰な生活の積み重ねによって全く違う意味のモンスターになってしまうなんて...。お父様、お母様、どうか我が子の愚行をお許し下さい。

 

夢の根本にあるもの

知的欲求モンスターのまま大人になったパターンも当然ある。例えば「クレイジージャーニー」に出てくるような方達はその典型だろう。他にも一生をかけて研究に勤しむ大学教授や、小さい頃になりたかった職業に就いて死ぬまでその職務を全うする人達もその部類だろう。しかし、全ての人に夢があるわけではない。そして、その夢の根本にあるのが知的欲求であるような気がしてならない。

 

知的好奇心の塊

子供はすぐに「なんで?」と聞く。親はそれに対して親身に答える。しかし、あらゆる答えに対しても子供はさらなる追撃を加える。

 

「なんで?」と。

 

子供は「知ること」に対して貪欲だ。自分を含む世界の全ての対象に興味を持っている。一方、大人は「なんで?」と言わない。言わないまでも「なんで?」と思う機会自体そのものが少ない。年を重ねるごとに「知ること」に対して消極的になっていくのはなぜだろうか。

 

残された「知」

一つには大人の方が知識量が多いからという事が言えるかもしれない。しかし、この世の「なんで?」は一人間が何十年かそこら勉強したからといって減っていくようなものではない。現在、過去、未来、地球上ましてや宇宙で起きている事象まで含めれば知らないことなど無限に存在する。そうなれば、大人も子供も残された「知」の量はほぼ平等と言えるので理由にはならない。

 

大人はやるべき事を優先する

そうなると、個人の意識の問題ではないか。自分の場合は「知ること」に費やす時間を持ち合わせいていないと勝手に決めつけていた。年齢を重ねるごとにやらなければならない事が増えていく。そして、「もう大人なんだから」という自覚により自分の意志でやる事よりもやらなければならない義務の方を優先するようになる。慢性的に忙しいという感覚が新しい何かに向けられる知的好奇心を間接的に阻害していたのだ。自分はそうやって「知ること」に対して徐々に消極的になっていったんだと思う。

 

ファミリーコンピュータ

記憶を辿る。保育園に通う幼少期においては間違いなく「なんで?」を連呼していた。小学生に入ると新しい友達が出来た。たくさん遊んだし学校の勉強も楽しかった。町内のスポーツ少年団にも所属して早朝野球に行くのも楽しみだった。そしてなんといってもファミコンだ。当時の流行っぷりといったら異常で思えばこの時すでに小学生の世界の中心は任天堂だった。「ゲームのおもしろさ」と「子供たちの思考回路」の関係性は元々は単体だったのではないかと疑うほどのフィット感を示し、凹と凸でガッチリ嚙み合った。子供たちは全国各地で巻き起こるこのムーブメントにあらがう事なく次々に飲み込まれていった。そして私にも皆同様に何かが憑依し寝ても覚めても狂ったようにゲームに明け暮れた。

 

24時間では足りない

456点。20年以上も前の事を今でも覚えているんだからよほど嬉しかったんだろう。中一の一学期の中間テストの合計点だ。国語、算数、理科、社会、英語の5教科で500点満点だから得点率にして91.2%。だが、この後どんなに頑張ってもこれ以上の点数はとれなかったし、学年の順位も落ち続けた。こうして中学生になると少しづつ自分の思い通りにならない事が増えてきた。勉強のやり方にも問題があったかもしれないが、単純に100点を取るための勉強時間が確保できていなかった。部活にゲーム、好きなテレビ番組、そしてとにかく眠い。はっきり言ってパンクしていた。中学生にして既に一日が24時間では足りなかったのだ。

 

やることリスト

それでも容赦なく地球は同じペースで回り続けた。高校に入ると図体と虚栄心だけは一丁前になっていた。そして、その希望に満ち溢れた新たな世界に飛び込むとアルバイトや恋愛といったさらなる人生のミッションが追加された。次々と目の前に現れる「やることリスト」は完遂されないまま過去のそれに追加されて厚みを増していく。すべてが中途半端な消化不良となり本能に任せた優先順位で出来うる限りをこなしていった。この一連の工程の繰り返しで青年の個性はますますそのいびつさを増していった。

 

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生きている意味が分からなくなったらまた「クレイジージャーニー」を見ようと思う

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一次情報に触れるのはたしかに重要だけれども

TSUTAYAに到着。たまたまテレビでちょっと見て気になっていた「クレイジージャーニー」のDVDを全巻借りた。ご存知の方も多いと思うがこの番組は想像以上にクレイジーなのである。テレビで放送出来るラインをギリギリ超えているにも関わらず、「あくまでこれは冒険ドキュメンタリーですよ」という揺るがぬ立ち位置を保持する事により地上波としての発信を可能にした奇跡の番組なのだ。昔、楽天の三木谷社長が言っていた。「二次情報ではなく一次情報に触れろ」と。いや、無理やろ。ここで紹介されている一次情報に触れるという事はサブイチくらいで死んでまう。

※サブイチ:「確率三分の一」の別称

 

狂った旅行

「クレイジージャーニー」に出演しているクレイジー達は基本的には探検、潜入、冒険といった過激な立ち居振る舞いしかしない。ところが、番組名で「ジャーニー」としているところがまたオツなのである。ジャーニーとは旅行である。「狂った旅行」...うむ。たしかに意味が理解出来るとなんとも味わい深いベストなネーミングである。何か刺激が欲しい人や今の現状に満足していない方には非常にオススメだ。次から次に世界で起きている非現実的なリアルを見せられて何も感じない日本人は少ないはずだ。現に私は今後の生き方が変わりそうな程の大きな衝撃を頂戴した。

 

人生の方程式

クレイジー達は己の意志で動いている。これはすべてのクレイジー達に共通している。やりたい事をやり、見たいものを見て、知りたい事を知る。いつ如何なる場合でも「己の興味>生命の危険」という判断基準の不等式が成立している。生きている。→死ぬまでは生きる。→やりたいことがある。→生きているうちにやりたい。→だからここでやれるなら死んでもいい。いたって真っ当な「人生の方程式」にも見える。早いうちに自分のやりたい事を見つけられた人は本当の意味での人生の勝ち組と言えるだろう。そして、私はそんな人たちを心から羨ましく思う。

 

人それぞれの矛先

やりたい事がない。これから何をしていいか分からない。人生お先真っ暗な中年無職の目にはクレイジー達の背中から時折うっすらと後光が差し込んでいるようにも見える。それは彼らが凡人には到底理解出来ない悟りを極めた神の領域に足を踏み入れたからなのだろうか。しかし、そんな神々の中にも過去に自分が何をやりたいのか分からずに悶々としている時期があった事を吐露する者もいた。荻田泰永氏は徒歩で北極点到達を目指す神(クレイジー)だ。「若い時に溢れんばかりのエネルギーをどこにぶつけていいか分からなくなっていた。」そして、彼はそっと吐き捨てる。「私の場合は矛先がたまたま北極だっただけである。」

 

生きる意味 

たしかに自分にも若かりし頃、溢れんばかりのエネルギーや色々な欲求があった。だけどもその大事な時期に本気で自分のやりたい事について考えてはいなかったのだろう。それと同時に自分勝手にやりたい事をやるという選択は、世間的によろしくないという空気感があったようにも記憶している。とはいえ、社会や環境のせいにする気は毛頭ない。私にしてみれば、これまで世間の普通を意識しつつ人の道から外れぬようなんとなく生きてきたに過ぎないのだ。そして今、仕事を辞めて特にやる事もない無の状態になってようやく人生のスタートラインに立てた気がしているのである。

 

 

 

 

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